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東京高等裁判所 昭和33年(う)1696号 判決 1960年2月18日

控訴人 被告人 山口行一

弁護人 蓬田武

検察官 山口鉄四郎

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人蓬田武提出にかかる控訴趣意書記載のとおりであるからここにこれを引用し、これに対し左のとおり判断する。

所論は、原判決の事実認定は、その第一および第二事実ともすべて事実誤認であるというにある。

よつて先ず判示第一事実について按ずるに、原判決は、判示第一事実として、被告人が、大里保と共謀して、原判決添附の別紙一覧表の1ないし12に記載されているとおりに、昭和二十四年二月二十五日頃より同二十五年二月十一日頃までの間十二回に青木千吉方外十一ケ所において右青木千吉外十一名所有の広巾格子服地約四十ヤール外数十点の物品および現金を盗取し、さらに大里保および中森薫と共謀して、同二十五年六月十八日夜前記一覧表13記載のとおり高瀬要八方で同人所有の中古自転車一台外二点を窃取したとの事実を判示しておるのであるが、この事実は捜査の段階以来被告人の終始一貫して否認しているところであり、かつ本件犯行の賍物は被告人方は勿論共犯者大里保方からも亦その他の何処からもその一点すらも発見せられておらず、盗品の処分方法も不明であることは、記録に徴し明白である。ところで、原判決は、右の事実のうち高瀬方における窃盗が被告人と大里保および中森薫の共謀にかかるものである点については、原判決の証拠の標目欄に記載されている大里保の各証人尋問調書(ただし右高瀬方に関するものは差戻前の第一審裁判所の証人尋問調書についてはその第一回および第六回証人尋問調書のみ)および原審の公判廷における証人中森薫の供述を、またその余の窃盗が被告人と大里保との共謀にかかるものである点については同じく大里保の各証人尋問調書(ただし、差戻前の第一審裁判所の証人尋問調書については前記高瀬方関係のもの以外のもの)を直接かつ最主要な証拠としてこれを認めたものであることは、原判決の挙示する各証拠の内容を仔細に検討すれば、容易にこれを知り得るのである。

そこで右大里保の供述の信憑性について考うるに、記録によると、同人は昭和九年二月生れで同年輩の少年に比し知能低い少年であるが、高瀬要八方盗難事件のあつた日の翌日である昭和二十五年六月十九日に所轄田沼署に任意出頭を命ぜられて出頭して以来本件についての破棄差戻後の原審裁判所の審理終結に至るまで本件犯行の容疑者或は重要証人として屡次にわたつて取り調べを受け、または証人として喚問されているのであるが、その間捜査の段階の初期においては判示十三回の窃盗の事実はすべて同人と被告人および中森の三人共謀の上の犯行である旨自認し、特に実況見分にあたつてはこれに立ち会いかつ図面を作成してその犯行の模様を説明しているのであるが、その後高瀬要八方以外の窃盗は被告人と二人での共謀犯行であつて中森は関係していないと、その供述を訂正し、その後本件公訴提起の前日である昭和二十五年七月十日の裁判官武内彩一郎の面前における供述までその供述を維持して来たところ、差戻前の第一審裁判所における第三回公判期日(同年八月二十四日)に証人として尋問せられた際突如としてその供述を飜えし、本件犯行の一切を否認するに至つたのであるが、その後同二十七年二月三日第一次控訴審裁判所における事実取調にあたり証人として喚問されるや前言を取り消し再び判示事実のとおりに被告人との共謀による本件犯行を認める証言を行つているのである。しかしながら差戻後の原審裁判所においては数回にわたつて証人として尋問を受けているがその都度或は東京医療少年院に在院中電気療法を受けたので記憶がはつきりしない(この点について東京医療少年院からは大里保に対して同人の在院中に電気療法を施行した事実はないとの回答がある。)とか、ヒロポンを打つたので記憶がなくなつたとかといつて本件犯行に関する尋問に答えず、果ては尋問者に対して反抗的態度に出でるに至つた事実が認められる。差戻後における証人中森薫の証言及び同人に対する指紋回答書によれば、同人は昭和二十三年三月八日鹿児島簡易裁判所において窃盗罪により懲役十月三年間執行猶予の言渡を受けたが、次いで同年九月二十七日足利簡易裁判所において住居侵入窃盗罪により懲役一年に処せられたため前記執行猶予を取消され、右二つの刑の執行を引続いて宇都宮刑務所において受け、昭和二十五年二月二十七日仮釈放され直ちに佐野市に来り一週間位したとき佐野駅前の風呂屋で釜焚きをしていた大里保と知合つたというのであるから、中森は大里保が捜査の初期の段階で述べたように原判決添附別表1乃至12の犯行に中森が共犯たることはあり得ないのである。このように大里保の供述は著しく信憑性に乏しく原判決が証拠として採用している大里保の前記各証人尋問調書は、それのみでは到底被告人につき判示のような共謀犯行の事実を認定し得る証拠とすることはできない。

もつとも高瀬要八方における判示窃盗事実については、前記大里保の証人尋問調書の外原判決が証拠として掲げる中森薫の原審昭和三十三年六月十日の公判廷における供述も、同人は大里保及び大里の友人と共にその犯行を実行した旨述べてはいるが同人は原審の右公判期日に在廷した被告人は全然見覚がない旨述べているのである。尤も右中森は、同日の証言において、当時の大里の友人は、右法廷における被告人と同様ニツカズボンをはき、被告人の同日の髪型と同様の職人刈をしていたと述べてはいるが、犯行当時の大里の友人が被告人であるとは述べていないこと前述のとおりであるのみならず、同人は、右高瀬方より盗み出した米か麦の入つたらしい麻袋及び俵は、大里方でもなく佐野市内でもない畑中の畦道を通り三十分位行つた農家らしい家に運んだと述べていて、大里保の供述していたところ(大里はこれを佐野市の被告人居宅附近に運んだという)とは全然異るのであるから、右中森薫の証言もまた判示高瀬方の犯行について被告人が共犯として加工した事実を認定する資料とするに足りない。原判決は被告人に対し十二回の大里との窃盗共犯及び一回の大里、中森との窃盗共犯の事実を認定しているのであるが、その盗品は一つとして発見されておらず、その盗品の処分方法も明らかでない。窃盗事犯において盗品の発見できないことのあり得ることは勿論であるけれども、前後十三回に亘り、数十点の物品を窃取したというのにそのうちの一点すら発見できず処分方法すら判明しないというのは奇異な現象であつて、前記大里の自供の真実性を疑わしむるものである。

その他原判決の挙示する差戻前の第一審裁判所の第二回公判調書中の証人飯島半治、同橋本誠三郎の各供述記載部分も、右大里保の各証人尋問調書および中森薫の右証言を補強し、その裏打となつて判示事実を認定せしめるに足りず、その他に被告人につき本件犯罪事実を認むべき証拠がない。

又当審における事実取調の結果によるも被告人の犯行を認めるに足る何らの証拠を発見できない。

次に判示第二事実について按ずるに、本件記録によると、被告人は差戻前の第一審裁判所の第一回公判期日において、公訴事実に対する陳述として右判示事実を自認している。しかしながら山口ウメの昭和二十五年六月二十一日附答申書、原審第十六回公判調書(昭和三十一年九月二十四日)中証人山口ウメおよび同山口伝次の各供述記載部分、山口伝次の司法巡査に対する昭和二十五年七月八日附供述調書、差戻前の第一審裁判所における第二回公判調書(昭和二十五年八月十日)中証人山口恵司の供述記載部分および原審第十七回公判調書(昭和三十一年十月二十四日)中証人山口恵司の供述記載部分を総合すると、本件の刀は被告人の弟である山口恵司がまだ小学生であつた昭和十五、六年頃附近の秋山川の大水の時に流れついていたのを拾つて家に持ち帰つたところ、当時存命中の鳶職をしていた被告人の父菊次郎がこれを取りあげ鉈にでもする積りで保管していたところ、昭和二十年秋父死亡後は同家の物置にある右菊次郎が使用していた道具箱の中に放置されていたのを被告人の兄伝次が昭和二十三年頃研いだことがあるが、その後もそのまま道具箱に入れておいたのが昭和二十五年六月二十日被告人に関する窃盗被疑事件につき警察官において山口方の家宅捜索をした際発見され差押えられたものである事実並びに右菊次郎の死後は被告人の母ウメが家事を切りもりしていた事実を推認することができるのであつて、このような事実に照らして考えると、被告人が右刀を所持していたものとは解し得ないので、右自白は真実に合しないのみならず原判決の挙示するその余の各証拠を以つてするも右判示事実を認定するに足りない。

ところが本件においては、差戻前の第一審判決が、本件各公訴事実はこれを認めるに足る証拠がないとして被告人に対し無罪の言渡をしたのに対し、当裁判所における第一次控訴審は、窃盗の事実については、大里保の「自供の内容は決してでたらめなものであるとは考えられないので、少くとも原裁判所が起訴にかかる窃盗の事実を全部証明不十分としたのは事実の誤認があるものといわなければならない」として、又銃砲等所持禁止令違反の事実については、被告人は、司法警察員に対してのみならず差戻前の第一審公判廷においてもこれを自白しており、その自白の信憑力はかなり強いものであるところ、記録を精査しても右自白を虚偽なりとするに足るほどの証拠が存在するものとは認められないので、結局差戻前の第一審判決がこの程度において直ちに犯罪の証明なしとして無罪を言い渡したのは、審理不尽の違法があるか、しからずんば事実認定の法則に違背した違法があるとして、同判決を破棄し、事件を第一審裁判所に差戻する旨の判決を言い渡している。そして右第一次控訴審判決が破棄の理由としてなした判断は、差戻を受けた下級審を拘束し、又再度の控訴審をも拘束するものではあるが、本件第一次控訴判決のごとく証拠の価値判断を理由として破棄差戻した場合には本件におけるが如く差戻を受けた第一審裁判所が改めて従来の証人を尋問し且つ従来取調べられていない新な証人尋問その他の証拠調をしたときは、差戻判決の時までとは、事実認定の資料の範囲を異にするので、差戻を受けた第一審裁判所は控訴判決の判断に拘束されることなくその自由な心証により公訴事実の存否を認定することができるものというべく、又その再度の第一審判決に対し控訴の申立があつた場合には、再度の控訴裁判所も亦第一次控訴判決の判断に拘束されることなく自由に再度の第一審判決の事実認定の当否を審査できるものといわなければならない。

してみれば原判決がその挙示する証拠によつて被告人に対し原判決判示第一の各窃盗の事実及び同判示第二の銃砲等所持禁止令違反の事実の存在を認定したのは、事実の誤認があつて、その誤認は原判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決はすべて破棄を免れない。

よつて刑事訴訟法第三百九十七条第一項により原判決を破棄し、同法第四百条但書により当裁判所は自ら左のとおり判決する。

本件公訴事実は、被告人は、第一、別紙一覧表記載のとおり、大里保、中森薫(ただし中森は同表記載の13だけ)と共謀の上、昭和二十四年二月二十五日頃より同二十五年六月十八日までの間十三回にわたり栃木県安蘇郡赤見町大字赤見三千五百八十四番地青木千吉方外十二ケ所において同人外十二名所有の広巾格子服地約四十ヤール外衣類その他の物品約六十点及び現金五百八十円を窃取し、第二、法定の除外事由がないのにかかわらず昭和二十一年八月頃より昭和二十五年六月二十一日頃までの間同県佐野市赤坂町七十一番地の被告人自宅において刃渡約三十七糎の脇差一振を隠匿して所持したものであるというにあるが、右の事実はすべてこれを証明するに足る証拠がないから刑事訴訟法第三百三十六条により無罪の言渡をすべきものとする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判長判事 岩田誠 判事 八田卯一郎 判事 司波実)

別紙一覧表<省略>

蓬田弁護人の控訴趣意

第一点本件犯行は被告人の犯行と認定はできない。

一、中森薫の証言(第二四回公判昭和33、6、10)二〇九七丁同人は昭和二十五年六月十八日当時大里保(栃木県安蘇郡田沼町大字栃本三三二五番地)方に同居していたが六月十八日当日は、大里と共に附近の農家に手伝いに行くことをやめて一日雑誌を読んで家にいた。その日大里は朝食後遊びに行き夕食の時も帰らなかつた、中森は大里の家族(父、母、姉)と四人で日没後間もなく夕食を食べた、食後一時間位雑誌を読んでいると、大里が帰つて来て東側廊下で用意してあつた夕食を食べた、その後一時間位大里と世間話をした後友人が来たと云つて、一人で部屋を出て行つて、すぐ戻つて来て、外に出てくれというので出た処、大里の家に向つた右側の西の道に大里の友人が立つて話をしていた。横に自転車の置いてあるのが家の中の電灯の薄あかりでわかつた、大里は「モサ」(泥棒の別名と解した)をするから手伝つてくれと云われたので、手伝うと答えて三人で歩き出した。大里の友人の持つて来た自転車を、その友人がおして大里と話し、中森はその後をついて行つた。畠の畦道を曲り歩いて行つた処に自転車を置いて、大里とその友人は普通の大きさの農家の屋敷に入つて行き、中森は自転車の処にいると、十五、六米行つた処から手招きされたので、その家の中に入つて行つたが暗いので手さぐりで麻袋を大里の友人に手伝つて運び出し、自転車に積んだ、大里とその友人は自転車を盗んで俵を積んで出て来て、大里の友人の合図でハンドルを握つて歩き、畠の畦道とか、砂利のない狭い道路を押して一米位の道路を大里の友人は案内が判つた風に普通の速度で歩いた。三十分位歩いたと思う時、三人は止つて農家みたいな田畑の中にある一軒家で、家造りは農家と思われた。木の種類は判らないが家の屋根と同一高さの木で囲まれていて、竹藪とか屋敷の木があつた、何米か離れた入口の門の処に自転車をとめた、大里の友人は自転車を押して十米位で家の中へ入つて行つた、更に出て来て手招きして大里を呼んだので大里が入つて行つた。それから、大里は友人の持つて行つた自転車を持つて来たが、それには俵は積んでなかつた。大里は中森に対してこの自転車(盗んだ自転車)に乗つて先に帰つてくれと云われた。その時道順を聞くと、この家からこの道を真直ぐ行けば駅が見える(大里の家の近くの駅)駅の方を目当にして行けばよいと云われて見た処が、駅迄目をさえぎるものがなく百米位で駅の光が見えたので、それを目当にして行つた、行つた道と帰つた道は異つていた。行きも帰りも町と思われる賑やかな場所は通らなかつた、帰りは広い処は乗り畠は自転車を押して歩いた、乗つて来た自転車は大里の家には置かず盗んだ自転車だからと思つて大里の裏の畑に置いた。盗んだ家に行つたのは暗くなつて間もなくである、大里の家と、盗みに入つた家と、俵を置いた場の図面を中森が書いた。「その家はあかりがついていて雨戸の隙間から外にもれる様な家である、話声は聞えなかつた、ここは「モサ」の根城で盗んだものの処分場所だと思つた、佐野の町内に運んだことはないと思う」大里保の賍物を運んだと云う山口の家の近くの道路わきの下家の写真を示した処、「盗んだものを運んだのはこんな場所ではない、佐野の市街地は知つているが佐野の町内に運んだことはなかつた。保の友人はニツカヅボンに地下足袋、帽子と手袋はない、上衣は記憶しない、頭は職人刈りみたいであつた、眼鏡はかけてない、身長は自分(中森)より低い位、体重も自分より少しやせていた自分は身長五尺五寸体重十六貫位である、職人刈とは被告席にいる者のような刈り方である、ニツカズボンも被告席にいる者のようなズボンである、大里の友人とはその夜初めて会つたと思う、被告席にいる者は全然記憶はない、大里の服装は下駄か草履か判らない、ズボンは普通の脊広ズボンで色は判らない、上衣は毛糸セーター、色は記憶なし、帽子はかぶつてなかつた、中森の服装は運動靴、色は白か黒か記憶がない、衿のある黒色のナツパ服、ズボンは黒色の普通の脊広ズボン、帽子も手袋もない、頭髪は普通の分けのばしである、足袋は十文三分である。その日太鼓の音で祭りであつたということが判つた、大里の友人が盗みに入る前に素足になつたことは気付かない、大里の友人の持つて行つた自転車をおいた場所には、小さい地蔵さんの御堂があつたと思う、盗みの現場まで行く間に下駄をはいて行つた人はない、大里が一緒にやつた事をしやべつたから知れたので調べに来たと云われた(検事の調べのとき)一切自白した現在処罰されることを覚悟している。」

二、大里保供述調書(昭和25、6、26田沼警察署、小川警部補に対する供述)一九四四丁「中森と知合になつたのは俺と兄弟分だから、仲良くやつてくれと山口が云うことで三人で遊んでいる中、日は忘れたが、山口が金がないからモサこくべやと云い出し、大里を見張として、中森、山口と一緒に泥棒をはじめた、盗んだ家やいろいろのことは、この間一緒に行つて来たが日はいつ頃と聞かれても数も多いので忘れた、ひとりで盗んだこともあるが、大体は三人であり、田沼町では自転車、米、麦、赤見では反物、葛生の中村では大豆、服を盗んだ、一番新しい奴を言い、前に行つた処を思い出して云います、はじめに高瀬という家へ行つたことを申すと、日は昭和二十五年六月十八日私(大里)の家に午前十時頃出口が遊びに来た。それから二人して田沼警察の西にあるパンパン屋へ行つた、山口の服装はハンチングをかぶり、ワイシヤツを着て黒つぽいペナペナのうすいズボンをはいておつた、自転車(二人乗り)で行つた。家に帰つて、中森、山口と飯を食つた、それから三人で五時頃まで「おだ」をあげ、山口は風呂を汲んでくれて午後五時頃になつて山口の自転車に乗り岩崎自転車屋で空気を入れて帰つて来て、山口に乗せてもらつて佐野に行つた途中ぶらぶらして山口の家に行つたのは七時頃だと思う、山口の家で夕食をよばれて佐野市役所前の吉野というパンパン屋で焼酎一ぱい位づつ飲んで、元来た道を市役所の方に引返し、千鳥の前を通つて、その隣家で焼酎一ぱいづつ飲んだが勘定は山口が払つた、午後十一時頃田沼に向い泥棒をする話は自転車に乗りながらした。山口が道にいて、大里は塀の処で中森を呼び出し、道の処で三人一緒になつてぶらぶら歩き、上舘野の会所の処から入る道を東に向う途中、地蔵様の処で一服した時、山口、中森の二人して、大里に番兵しろと云つて歩き出し、三人して田野入に向つて歩き出し、車屋の処を西に向つて引返して道の北側の農家の前で止り、この家に入ると云いながら庭先に入つた。大里は入口のくねの処で番をした、約一時間位番兵したら山口が「こつちへ来い」と呼ぶので一緒に家の東の処へ行くと中森は裏側のくねの処にいてそこに麻であんだような南京袋と俵と自転車一台がおいてあり、山口の自転車もそこにあつた、山口はその柿の木の処で糞をした。大里と中森は俵を一緒に持ち上げ、盗んだ自転車につけて荷縄でしばつた、山口は南京袋を自分の自転車にのせ畠の中の道を通り畠を横切り家の北側へ出た。それで地蔵様の道の処へ出て会所の処の本通りに出、山口に乗せてもらい、中森は盗んだ自転車に俵をのせて佐野に向い製粉の西の道を通り赤坂へ行き、山口の家に着いたのは午前二時頃で、荷物はこの間行つた処へ置いて山口の家へ入つて泊つた、朝になつて表へ出て見ると荷物はなかつた、中森は荷物を運んで帰つて行つたので山口が夜中に起きて何処かへ運んだと思う」

三、被告人質問調書(第十八回公判、昭和32、1、21)一八七九丁「佐野市以外では船津川以外へ働きに行つたことはない、赤見、葛生、田沼方面に働きに行かない、栃本方面のことは全然知らない、保の家に遊びに行つたことはある、履物は家にいる時は下駄、ズツク靴は全くはかない、時計は持たない、横浜へ行く前の晩、佐野の町へ大里と遊びに行き、大里を泊めた、その晩は三軒の飲み屋によつたように思うが、千代の家旭屋によつたか覚えておらない、その晩大里と家を出たのは-町に遊びに出たのは誤り(蓬田弁護人公判手控により明白である)八時頃であると思う、帰宅した時間は午後十時頃だつたか午前一時頃だつたか判然わからない、その晩大里を泊めたのは、家が遠く時間もおそくなつたからである、飲み屋で酒を飲んで使つたのは二人分で二百円位である、全部山口が出した、横浜へ行く前の日は朝親方の処へ行つて疲れたから休むと云つて許しを受け金を借りて、家に帰り少し寝た。大里とはその日の夜、国鉄両毛線佐野駅前で偶然に出会つた、夕飯は家で食べてから街へ出かけた処大里と出会つた、その時大里も佐野へ遊びに来た様子で、大里本人も遊びに来たと申しておつた、その時大里は白のズツク靴、白ズボン、白木綿のワイシヤツ、帽子はかぶらず、坊主頭で、目につく品物はもつておらず、佐野へは電車で来たらしく出会つた時は歩いて来る処だつた、二人で花柳街をひやかしたが金がなかつたので遊ばなかつた、旭屋と「いづみ」という店二軒で大里と二人で焼酎を飲んで、肴はつまみ、酒を飲んでから花柳街をひやかして帰つたように思う、山口が泊れと云つて連れ帰つて泊めた当夜は自転車は持つて行かず歩いて行つた、山口の服装は今着ている半纒同様衿に「山上」と白く染めた印半纒を着、下着は丸首白シヤツ一枚で下を紐で結んで締めて、腿の処がたぶたぶに出来ているニツカズボンを穿いて、ズボンの色は青い縦の筋の入つた暗桃色、履物は麻裏草履、国防色のハンチングを冠つていた、当時大里方にいた九州生れの中森という男には全然会つたことはない、鳶仕事の仲間以外はつきあつていない。「千鳥」という店で酒か焼酎を飲んだことはない、名前も聞いたこともなく、佐野にはそういう店はないと思う」

四、右三者の供述を検討するとき、昭和二十五年六月十八日夜高瀬要八方の窃盗は、中森の供述によれば、大里、中森が関係していることは真実のように思われ、(イ)犯行時間は暦と対照して、日没時間の午後七時後間もなくと推定、中古自転車と白米一俵、麦一袋を盗み出して、野中の一軒家に運び終つたのは午後八時前後であることが推定される、その頃は山口は夕食を自宅で済まし、午後八時頃家を出て、両毛佐野駅の方に、ひとりで遊びに行き偶然大里と出会い、二人で焼酎を飲み花柳街をひやかし、十時半すぎ大里を連れ帰り大里を泊めた、夕食を大里が山口方でとつたという大里の供述は、山口ウメ、山口恵司の供述中になく、この点に対する山口忠一の第十回公判における供述は誤りである、中森の供述によつても大里は夕飯は自宅でとつていることが明らかである。(ロ)賍物を運んだ場所が大里と中森の供述と、何れが信を措けるかを比較検討すれば、大里は賍物を山口の家に隣接する道路に面した下家に運びその処分は一切山口がしたと供述していて、全くその場所が異つている、検証の結果によつても右下家の場所に賍品をおいて何人にも発見されず、山口が処分出来るような場所柄ではない。(ハ)而も大里の年令(当時十七才)智能(痴愚-大里保精神鑑定書に依る)嘘つきの性癖(実母藤田スギ昭和31、12、4の証言調書「保は小さい時から親に嘘ばかり云つていた」旨の証言)(大里保第六回供述調書昭和15、6、28田沼警察署「私は嘘をつく癖があつて、あだ名がトントツと云われています」旨の証言)に依つても、信を措くに足らないことは明らかである。(ニ)そこで大里は中森と犯行後別れた後、佐野に遊びに来て、偶然山口と一緒になり、遊んで山口方に泊つたので山口は関係なく、中森の所謂大里の友人とは、山口以外のものであることは中森、山口の供述によつても互に一面識もないことが明確であつて、頭髪の職人刈りとか、地下足袋とか、ニツカズボンとかの事実によつては、山口であるとの認定は出来ない、それ等の点は職人共通の服装である、而も賍品を運んだ野中の一軒家は、山口本人又はその家族、友人等密接な関係で賍品を隠匿処分することの可能な関係であることを立証されなければ、山口忠一の犯行と認定されることは出来ない。

第二点本件犯行を裏付ける物的証拠は何も存在しない、犯示第一の事実は被害場所青木千吉方工場共計十三、被害者十三名被害品目約六十点、時価合計-昭和二十五年七月十一日起訴当時、時価約十三万七千円及び現金五百八十円総計十三万七千五百八十円、犯行の日時昭和二十四年二月二十五日以降昭和二十五年六月十八日に亘る十六ケ月、被害地域、赤見、葛生、田沼の三地区警察の広汎な区域に及び犯行の手口は、土蔵破り、織物工場の製作中の反物を織機より切り取り、通常窃盗等多様な犯行であるが、その犯人の足跡、指紋、犯行に用いた兇器、賍品の発見並にその処分方法等につき何等物的証拠の裏付がない極めて奇怪な犯罪であつて、かような証拠を残さない犯行は巧妙な組織をもつ、鋭い頭脳の持主でなければ出来ないのが常識である。

(イ) 大里と比較して年令も多く主犯者と目される山口の能力は次の証言によつても明らかである。小沼荒次証言(昭和31、12、4)「山口の小学校時代の成績表を受持先生から貰つたが、十点満点として四点か五点で成績は最底能力であつた」又山口は鳶職をさしても一人前の仕事が出来ず、職人として親方が段取りをしてやらなければ、自ら独立して仕事の出来ない能力であり、昭和二十五年二月当時一人前の職人が日給三百七、八十円の時三百円の日給であつたことは、山口を使つていた親方川村正作の証言(昭和30、9、10一五〇二丁以下)によつても立証出来る尚本事件公判開始以来の山口の言動を直接洞察すれば、右の証言が現実に裏付されることを訴訟関係人は親しく体験していることは顕著な事実である。(ロ) 大里の能力は山口以下であつて常人の水準よりはるかに低劣なことは、前述の精神鑑定書の通りであり山口同様同人の取調に接した訴訟関係人が体験したことは顕著な事実であることは申すまでもない。(ハ) 尚新井正一証言調書(七十五丁)「織機に相当経験ある者と思う、未経験の者には外すときにあれ程の機械操作は出来ないと思います」、割田せつ証言調書(九〇丁)「切り具合から見て機に経験のある者の様でした。」、青木千吉証言調書(一〇二丁)「泥棒は織機の操作をあつかつている様に思われた。」、新井国三郎証言調書(一一六丁)「機が上手に切つてあつた点及び巻棒を外して持つて行つた点等から推して機に経験のある者の仕業の様に思われた。」、茂呂孝治証言調書(一三〇丁)「犯人は二種類の刃物を使用し、相当地理に委しいものと思われました。」との各証言によつても、山口、大里程度の能力に程遠いことが明らかである。

第三点一、大里保供述の真実性について

(イ) 実況見分調書(昭和25、6、22、同6、24田沼警察署警部補小川清作作成)三四四丁以下 被害現場十三個所(青木千吉外十二個所)に大里保を連行して(被告人山口を立会わせず)の実況見分の際の大里は十三個所全部の犯行は、中森、山口、大里の共犯で、大里は見張のみで而も賍物の運搬場所、処分方法等は一切不明であることを供述している。

(ロ) 大里保供述調書(第一回昭和25、6、19田沼警察署司法警察員巡査笹原芳三郎作成)、同第二回昭和25、6、26同署警部補小川清作作成)、同(第三回昭和25、6、27同)、同(第四回昭和25、6、27同)、同(第五回昭和25、6、28同)、同(第六回昭和25、6、28同)、同(第七回昭和25、6、29同)、同(第八回昭和25、6、29同)、同(第九回昭和25、6、29同)、同(第十回昭和25、6、30同)、同(第十一回昭和25、6、30同)、同(第十二回昭和25、6、30同)、同(第十三回昭和25、7、2同署巡査笹原芳三郎作成)、同(第十四回昭和25、72同)、同(第十五回昭和25、7、5同警部補小川清作作成)、同(第十六回昭和25、7、8同)

右各供述中、第一回乃至第四回供述は何れも十三軒全部の犯行は中森、山口、大里三人の共犯であると自供し第五回(昭和25、6、28)の供述で初めて中森の共犯を否認し、「その頃は中森とは知らず前に言つた通り嘘を言つたので二人丈でやつたのです」と自供を変えた。爾来第六回以後第十六回(昭和25、7、8)まで山口と大里の共犯であることを自供している。大里の犯行手段は、右第六回供述(中田治平方昭和25、6、28)では、同所の犯行は、山口に壁切りを手伝つたと、述べて見張を否認した以外は全部見張りのみである、実況見分調書(昭和25、6、22椎名朝二方)四二九丁で大里は「中森、大里と、佐野の山口方住居に行き、それから三人して田沼に行つた」と述べ第四回供述調書(昭和25、6、27)では「大里の家より山口、中森三人で犯行場所に行つた」と述べているが、其他の供述では共犯者の謀議の場所、犯行手段の決定等は詳かでない。

(ハ) 大里保証人尋問調書(昭和25、7、10裁判官武内彩一郎に対する供述)五四九丁以下で賍物を運ぶに際して(a)山口の家まで一緒に持つて行つたか(b)大里の家で別れて山口が単独で持ち帰つたかの供述の変化は次の通りである。

被害者名 武内裁判官調書 大里保証人尋問調書裁判官戸恒庫三 五〇丁以下

青木千吉 山口方まで一緒 大里の家の処で別れた

新井正一 右同 右同

割田儀三郎 右同 右同

石沢春雄 大里の家の処で別れた 右同

篠崎秀四 山口方まで一緒 右同

渋江愛三郎 不明 不明

渡辺桃吉 不明 不明

関根定保 大里の家の処で別れた 大里の家の処で別れた

寺内信次 不明 山口の家まで一緒

新井嘉一郎 大里の家の処で別れた 大里の家の処で別れた

中田治平 不明 不明

椎名朝二 山口方まで一緒 山口方まで一緒

高瀬要八 右同 右同

(註 武内裁判官の調書に於ける被害者の氏名は犯行年月日により推定した)

同調書五六三丁では、「山口が午後五時頃自転車で大里の家に来て、二人で佐野市に遊びに行き、今夜盗みをしようという話が出て、山口が中森を呼んで来いと云うので佐野から帰つて大里の家に行き中森を誘ひ出し、山口の待つている処へ行くと平素中森と山口とはごく懇意で二人の間ではもう話が出来ていたと見え、山口がそこら近所で盗みをしようと云い出すと中森はすぐ承知して、三人で盗みをする家を探し高瀬要八という農家に入ることになり、私はわきで見張をしていました……」とあるが、大里保第二回供述調書(昭和25、6、26田沼警察署警部補小川清作作成)によれば「山口が大里の家に午前十時頃遊びに来て、それからすぐ田沼町の警察署の西にあるパンパン屋へ、ひやかしに行き、大里の家に帰り、中森と山口と一緒に昼食をとつた、三人で午後五時頃迄「おだ」をあげ、山口と同人の自転車にのせてもらつて佐野に行き、ぶらぶらして山口の家に七時頃行つた、山口の家で夕食をとり、二人で佐野市役所前の吉野というパンパン屋へ行つて焼酎を一杯づつ飲み引返して千鳥の前を通つて、その隣りの家で焼酎を一杯づつのみ、その家を出て午後十一時頃田沼に向い途中、泥棒の相談をし、大里方に行つて中森を誘つて三人で泥棒をした」大里保証人尋問調書「昭和25、8、3田沼警察署、裁判官戸恒庫三)五三丁には、「当時中森は私(大里)方に泊つていたので、私(大里)が山口の家へ同人を迎えに行き、私方で三人一緒になつて盗みに行つた」「その時山口の母はいたが話かけもせず、話しかけもされなかつた、山口方に着いたのは八時頃まだ明るい頃だつた、十分位いた、母親からバツト二本もらい火をつけ、すぐ山口方を出た」、「山口を迎えに行つた時同人方で夕食を御馳走になつた」、「中森は高瀬方へ盗みに入る六ケ月前頃から大里方に泊つていた」右のように大里自身の供述は、各供述毎に主要な点で相違、矛盾しているので全く信頼するに足らぬ、検証調書に地形の関係が、非常に詳細に書いてあることは、刑事が現場を調べてその通り大里が述べたことにしたので詳細であること自身が捏造である。犯行手段も被害者の被害届と報告を基礎にして刑事が大里の供述をそれに符合させたと解せられる。

二、大里供述の任意性なき点

暴行、恐迫、誘導の事実

(イ) 小沼荒次証言調書(昭和31、12、4証人宅臨床尋問)「検事の申請で検証をやつた時、大里は同行したが当時大里は田沼警察に留置されており、田沼の警察官が同行して、大里の供述は警察の供述調書を基として答えておるように思われた、大里自身の発言であるが誰かに云わされているように思われたので、田沼の小見の検証の時途中から、戸恒判事に申入れて現場の検証の時現場から大里を距離をはなしておいて現場検証がすんでから、大里を呼んで確める方法をとつた」旨の証言、

(註、小見の検証の時の、大里の検証調書の供述が他の場所の供述と比較して特に曖昧なのはこの為と思われる)

(ロ) 山口ウメ証言調書(第十六回公判昭和32、9、24)一六三六丁「家宅捜索された何日か後に、警察官が二人で保を連れて私の家に来て家の周囲をごたごたと何かしていたが私が外から帰つて行くのを見ると警察官達は「婆々アが来たから行つちまうべ保が一番いい子だからな保ぐらいいい子はありやしねい」と云いながら保をつれて逃げるように行つてしまつた」それはこの事件で忠一が挙げられて留置されていた間のことである。「警察官はこの間証人として出て来たあのおかしな鬼のような面をした飯島が来たのです、もう一人は誰だか判らない」、「私はそのような事をしやべりながら行く後姿を見たのでどちらのお巡りがしやべつたのか判りませんでした」又大里を留置して取調中映画館に連行して映画を見せたり、煙草を吸わしたり、パイプをくれたり、うどんやまんじゆうを御馳走したりした事実は次の証言によつて明確である。小川清作証言調書(第五回公判昭和25、9、18)六二〇丁、小川清作尋問調書(第八回公判昭和29、2、1)一〇二六丁、飯島半治尋問調書(右同)一〇五六丁、笠原芳三郎尋問調書(第九回公判昭和29、2、19)一一八九丁、藤田与衛右門尋問調書(同)一〇九四丁、藤田ツギ尋問調書(同)一一二五丁、荒井米蔵尋問調書(第十五回31、9、10)一四二四丁。右事実は、未成年で低能の大里を、手なづけ、誘惑して思うままに供述させた事実を暴露したものである。

(ハ) 大里保尋問調書(第四回公判昭和28、7、15)七八九丁「田沼警察にいる間殴られたことを覚えているがあとは判らない、殴られたのは警察に連れて行かれてすぐの事である、夕方連れて行かれ房につれ込まれる前に殴られた、それから後のことは全然記憶がない」、「警察に連れられて殴られた事を知つているが後は判らない」、「田沼の警察に殴られたのは、記憶にあるが後はわからない」、「[木雷]粉木棒を下において、そこに座らせられ、びんたをくれたりされたので忘れられない」、大里保尋問調書(第十八回公判昭和32、1、21)一八六〇丁「殴られて口惜しかつた事だけ覚えてんだがその外の事は忘れた」、「つかまつた日の晩調べを受ける時に顔をびんたで殴られたり棒を横にしてその上に座らされたり、尻の辺りを棒で殴られたりした、それ丈は口惜しくて忘れないで覚えてるんだがその外のことは判らぬようになつた」、「棒はお巡さんがいつももつている棒です」、「足の下に置いて座らされたという棒も同じ棒です、俺はそのお巡さんに会つたらやつてやろうと思つてんだが、どうもどの奴だか判んねえ」、「田沼警察署にいた当時田沼、赤見や葛生等へ連れられて足利の裁判所の検事の取調をうけたことはあると思います」「その時は知つていることをありのまま述べたつもりが-殆ど脅かされてしやべつた事なんで判んねえ」右の証言にある通り大里保の証言供述は取調官の暴行、恐迫、誘導等によつて捏造作成されている事を暴露しているものである。

三、大里保の真実なる供述 前掲調書において(一八七六丁)堀端裁判官 証人はポン中になつたから判んないというが、此の前は医療少年院で精神病の電気治療を受けたので判んなくなつたと述べたのではないか、判んねい。此の前は電気治療を受けたので判んなくなつたと述べたのではないか、電気治療もあるしポン中もあるんで判んねえですよ 判んねえのかこの畜生 此の時証人は自己の面前に置かれている録音用マイクロフオーンの脚部を握りこれを振上げようとしたが付添の刑務官及び廷吏に制止された。被告人 俺と泥棒した事があつたのか ポン中だから判んねえと云つてんだよ 刑事に脅かされて云つたんだよ面倒臭えなこん畜生 此の時証人は恰かも被告人に対して格斗を挑むが如き気勢を示し上衣を脱ごうとした 被告人は之に対し やるのか此の野郎てめいらにや負けねえぞ と叫んで腰を稍や低くし応戦の気構えを示した為大里証人に附添の刑務官及び廷吏が被告人と証人を制止した。弁護人(被告人に対して)被告人は今証人に対してどんな事を聞いたのか、俺が大里と一緒に泥棒した事があるというのかどうかを聞いたのです、それに対して大里は被告人と一緒に泥棒した事は無い、前に被告人と一緒に泥棒をしたと述べたのは刑事にそう云わされたのだという意味の事を答えたわけか、そうです、弁護人(証人に対して)証人に被告人山口と一緒に泥棒をしたと云わせたというのはどんな刑事か、顔に瑕のある男です、その刑事がどこまでも通せと云つたのです、どこまでも通せとはどういう意味 (答えない)その刑事が山口と一緒に泥棒をしたとどこまでも云えと云つたのか、そうです、証人は山口忠一と一緒に泥棒をした事はないか、はい、右の証言は山口と大里との間にかわされた直接問答である、それは全く赤裸々の表現で真実を語つたものであつて、直接審理の結果に基く真相を把握する絶好の機会であつた。大里保、山口行一両者の真剣な態度よりして、この供述の真実性は明らかに看取されたことは立会関係者に顕著な事実である。

四、物的証拠隠匿による真相歪曲の事実

本件犯行について捜査に当つた警察官が証拠蒐集をしたことは明白である。小川清作尋問調書(第八回公判昭和29、2、1)一〇二六丁「高瀬方の被害現場から被害にあつたと思料される米か麦が大里の家の方にこぼれておりました」「その現場写真は撮影して検察庁に送つたと思う」「指紋は採取出来なかつたが足跡についてどの様な処置をしたか記憶がない」。飯島半治尋問調書(右同)一〇五六丁「高瀬方で被害があつた時重い荷物をつけたと思われるような自転車のタイヤの跡があり、米か何かがこぼれていたので大里を追及したわけです」。茂呂孝治尋問調書(右同)一〇七三丁「ハタ場荒しが四、五件あり現場指紋検出の結果幾つかはとれた」「運動靴や地下足袋の足跡は石膏で採取した。足の長さとか幅とか調べた、現場の写真もとつた、捜査主任としてハタ場荒しの事件について他の窃盗事件が起れば通常やる様な捜査方法をとつた、特に現場写真をとらなかつたとか、証拠保全の方法を抜いたというような事は私の在職中はなかつた、昭和二十五、六年頃ハタ場荒しの未検挙の犯人が田沼署にあげられたとの連絡があつた、田沼署から連絡があり証人方-赤見町警察署-では足跡現場写真、被害品の端切れ等田沼署に送付した。当時現場に地下足袋や運動靴の足跡があつたので一人ではないと認定した。赤見署に在任中渡した証拠物等の受取は現在は佐野地区署にあると思う。橋本誠三郎尋問調書(第九回公判昭和29、2、19)一一四九丁 高瀬要八方で盗られた米か麦かの一部と思われる物が大里方の屋敷の附近にこぼれていたと云う事実は記憶に浮ばないが、本件に限り、普通他の事件なら採るべき写真も撮らず又書くべき図面も書かなかつたと云うことはなかつた。那須昌一郎尋問調書(右同)一一六五丁 高瀬方現場写真は鑑識課で取つたと思います。赤見署管内の機切の事件の取寄記録を調査した結果証人が山口方より押収してきた端切と切口が違うとか或は生地が違うとか云うので返したのではないか-黙して答えない、その布端を被害者に見せ被害品を照合して合つておらぬという事で本件に関係なしとして返還したのである、中森薫については当時国警の鑑識課に照会したら何処かの警察につかまつたことがあるので、国警から同人の写真を送つて来た、大里に見せた処中森に違いないとの事で共犯者中森の捜査を進めた。右の各証言によつて明らかなように、十三件の犯行場所については、担当警察署の捜査で幾多の物的証拠が蒐集されたのは明らかであるにも拘らず物的証拠によつて山口の犯行を裏付けすることが出来ず、むしろ逆の結果が暴露されることを怖れて捜査関係者によつて隠匿されたことは明らかである。一例をとれば足型を石膏により長さ巾を調べたとすれば、山口の足型と一致するかどうかを調べれば当然科学的に立証される筈である。原審に於ける山口方の検証によつて山口の用いた地下足袋は長さ二十五糎甲の部分全部布、拇指の部と他の四本の指の部分に分れている、底は一様のゴムで踵の部分は特にゴムが厚く外底の大部分に横に溝が刻まれている。検証調書(昭和31、12、4一七七五丁参照)それ故に大里保の各証言によつてのみ山口の犯行を裏付けんとして証言捏造を試みた事は明らかである。赤見、葛生、田沼の三署管内の犯人未検挙事実を一括して大里の供述に依存して、山口との共犯としたものである。

第四点第二の事実(鉄砲等所持禁止令違反)について

一、刀剣押収当時の模様

那須昌一郎尋問調書(第九回公判昭和25、2、19)一一六五丁 山口ウメ名義提出の答申書はウメの話を聞き代筆して取つたものである、任意提出書は自分が取つたものである。山口の家宅捜索の時脇差を発見したのは私だと思う、山口の家を入つて左側の薄暗い所の棚の上にあつた道具箱の中に鉋や金槌と一緒に入つていた。飯島半治尋問調書(第十五回公判昭和31、9、10)一三九一丁 山口方で発見されたという一振は山口忠一の母ウメに任意提出させて押収したのか捜索差押令状によつて押収したのか判然しない。押収する際この脇差は誰のものかと聞いたら判らないと答えたので忠一のものではないかと聞いてみた、すると山口の母はその点も判らないと云つていた、後で忠一に聞いてみたところ自分のものだとか、父のものだとか判然しないことを云つた。脇差を押収する際私達は山口の母に対して、いつからあつたものか聞いたら「何時からあつたか知らない」と申していた。山口忠一が脇差を所持していることを承知で捜索に行き見つけて押収したのではない、脇差を押収することは予期していなかつた。泥棒容疑のほかに家宅捜索の際、脇差も出たのでそれも山口の事件として併せて起訴させたのである。私が山口にその脇差を示して、これは誰のものか知つているかと尋ねたところ山口は知らないと申していた。脇差を押収して持帰つたあと脇差のことで誰よりも先に私が最初に調べて調書を作つたと記憶する、忠一が弟が終戦直後秋山川の河原で拾つて来たと述べたようにも思う、家宅捜索当時の山口家の世帯主は忠一の母だと思つていた。

二、刀剣が山口の家に持ち来たされた経路

被告人の公判調書(第一回公判昭和25、7、27)六丁 昭和二十一年の夏弟恵司と一緒に行つて秋山川で拾つて来た(註当時被告人は満十七才である)

被告人第一回供述調書(昭和25、6、21田沼警察署巡査笠原芳三郎作成)五六六丁 弟恵司が秋山川で拾つたのを二十一年の春頃もらつて私が家で研いて台所の場所にしまつた、同第二回同(昭和25、6、22同)五六九丁 長ドスを弟より受取つて昼飯を食べて錆ていたので使うつもりもないのでザーと研いて台所の上の方にある敷居の上においた、一回位家の仕事に使つたことがあるが其後は一度も研がない、警察に出さないと悪いとは知つていたが、もつたいないと思つて持つていた。同第七回同(昭和25、7、3同警部補小川清作作成)五七八丁 私は盗みをしたことはありません、只悪いと思うことは刀を持つていたこと丈です、

山口伝次第一回供述調書(昭和25、7、8田沼警察署巡査那須昌一郎作成)四六丁「一昨年頃道具箱にある刀を見たが、錆びてガタガタになつていた。警察でこの間持つて行つたときは光つていたそうですから弟(忠一)が研いたものと思われます。刀は大水があつたとき父が秋山川から拾つて来たとのことです」

山口恵司尋問調書(昭和25、8、10第二回公判)三二五丁 私は尋常四年頃拾つて来た、父が「なた」にすると云つてそれきり知りません、同(第十七回公判昭和31、10、24)一六九九丁 (脇差を示す)この刀には見覚えがある、私が子供のとき川に行つて拾つて来た。佐野赤坂の生家から五〇〇米位の処にある秋山川に大水のとき-小学校二年か三年の頃-小学校は七つあがり家などがこわされて材木等が流れて来るので珍らしい大水のために一人で見に行つた、その時刀を拾つた。水門の堰の杭を打つた処でムク-水草等がひつかかつていた、そのムクの中にまじつてあつた、杭の間にはさまつてのつかつてあつた。鞘の上にきれが巻いてあつた、国防色のような色の布でつかの方も巻いてあつた、拾つて家に持つて来た-朝十時頃であつた、父菊次郎に見せて拾つて来たと云つて父に渡して見せたら父が抜いて見た、赤く錆ていたが父は「二つにわつてナタにしたらよいから使おう、昔のものだから切れるからナタにして使う」と云つた。拾つて来た当時父もいくらか研いたと思うが、兄伝次が研いたと思う、家の中で研いていたのを見た。父に初めて見せたときは誰もいなかつた、父は道具箱に入れて置いた、道具箱は商売に使う道具が入つている、家の中の台所の脇に置いた。忠一に刀をくれたことはない、忠一からくれと云われたことはない忠一が持つたり、研いたりしたことはない、父のものだと思つていた、刀を持つてはよくないとは、聞いていなかつた。

山口伝次尋問調書(第十六回公判昭和31、9、24)一五七七丁 昭和二十三年頃刀を研いたことがある、横須賀に行く前である、昔の骨董品であると思つてやつた、刀は道具箱の中にあつた、道具箱は家についている台所の隅の方(土間)にある、昔から-おやじの代からあつたと思う鳶職として使う鉋、のこ切り等があつた、刀の鞘は二つにはがれていた、ツバは入つていた、ツカもついていた、中味は錆びていた、刀を研いたのは初めて見て珍らしかつたからで錆をとつた家にある荒砥で研いた、後になつてオフクロにきいたら恵司が川から拾つて来たときかされた、刀は家のものであるに間違いない、道具箱は誰の所有とはつきりきめてはない、生活の中心者はオフクロである、刀もオフクロが支配していることになる。

山口ウメ尋問調書(第六回公判昭和28、12、2)九七六丁 私の家を家さがしする時もどやどやと家に上つて、家の中を探し奥にあつた道具箱にあつた伝次がといであつた刀を飯島半治が持つて行つた、三十五、六枚の布切と革のベルトと革の長靴を持つて行つたが脇差は返してくれなかつた外のものは持つて行つて十日位たつて、警察にとりに来いと云われて警察から返してもらつた、同(第十六回公判昭和31、9、24)一六一六丁奥の方から「道具箱の中にあつた」と云いながら刑事が持つて来た、その刀が家にあることは全然知らなかつた。伝次が足を怪我して家に帰つて来てぶらぶらしている間に研いたということを、この事件になつた後伝次から聞いた、この事件で忠一があげられた後恵司から「秋山川が大水になつた時魚すくいに行つて拾つて来た」という話をきいた、秋山川の大水の時は夫菊次郎は生きていた、恵司の話では「父さんは「こんな刀でも竹を割る鉈の代りに使えるだろうから鍜冶屋へ頼んで鉈に作り変えるべ」と云つていた」とのことです。刀は別に誰のものとしてあつたわけではない、刀を誰かが持ち出して使つたことは全然ない、忠一は毎日仕事に出ていたのだから、そんな刀があることなど知らなかつたと思う、

被告人質問調書(第十回公判昭和29、3、22)一二二五丁 起訴状記載の公訴事実二を読聞かせた、その事は全然知りません、この脇差を家で見たことはない、足利裁判所、警察、検察庁で自分が脇差を持つていたと云わない見たことがないと云つた、弟恵司が二十一年の春頃秋山川で拾つて来たのを自分でもらつて台所に置いたのだから自分のものではないかと警察で云つたではないか-判んない、脇差はお上の許可をうけなければ持つていてはいけないと聞いた、足利の裁判所で脇差を家においたと云つたことはない今考えて見て脇差を家で見た事は全然ない、係官が調べる都度調書という書付は書いた。書付を読聞かせて印を押させたのか-読んで聞かせてから、なんでもよいから押しさえすれば早く帰れると思つて判を押した。調書には自分の名前は書かない、名前は係官が代筆してくれた、先程見せられた脇差を私が初めて見たのは葛生の警察である、その時私はこの脇差は全然知らないと云つた、兄貴が何の気なしに道具箱にしまつておいたと兄貴に聞いた、刀は弟が秋山川から拾つて来たとのことです、あの脇差の由来はその時初めて聞いた、恵司が尋常六年の頃だとのことです、その頃脇差を拾つて来た頃佐野の飯塚親分の処に働きに行つていた頃で、朝七時半頃弁当を持つて家を出て夕方六時過ぎでないと帰らなかつたので家の中を家探しする機会もなかつた、その頃兄貴(伝次)は足尾銅山に働きに行つて足を怪我して帰つて毎日ブラブラしていたので、脇差を研いて道具箱にしまつておいたそうです、脇差が家にあることを母や弟から聞かされていない、昭和二十四年の初頃までは私の処の生活は一切母親がきりまわしていた。

右の各証言によれば、本件脇差は被告人の実弟恵司が秋山川出水の時拾つて来て以来山口家にあつたのであるが、被告人は本件脇差は葛生警察署で示されるまで全然知らなかつたと云つて否認している、仮に山口が弟恵司から貰つて、研いだことがあるにしても恵司が刀を拾つて山口の家に持つて来た時からその保管は当時存命中だつた父菊次郎に移つたのである、菊次郎は昭和二十年九月十八日死亡したので、その後は実母ウメが世帯主として一家を切りもりしたので、ウメの保管に移つたと見られる。(恵司が尋常三、四年生頃拾つて来たとすれば昭和十六、七年頃であつて、これは各証言で明白である)菊次郎死亡当時は山口は満十六才にすぎないので山口が本件脇差を自己のものとして占有使用したという特段の事実は何も認められない、昭和二三年(れ)第一八三一号同二四年五月二六日第一小廷判決「銃砲等所持禁止令にいわゆる「所持」とは銃砲等の保管について支配関係を開始し、これを持続する所為をいう」所持とは人が物に対し事実上自由に処分し得る支配関係であるから勿論支配意思を伴うものである、例えば山口が所持携行したとか、常に支配意思をもつて使用しておつたとかの具体的事実立証がない限りは所持と認定することは正当ではない、然るに原調書によつてもそのことは明らかにされない。本件脇差はむしろ出口家のものとして保管されていたとみられるような状態で、そして又特に隠匿して所持したという事実は全く認められない、従つて山口忠一の所持となすには特段の事実立証がなされなければならないが、その点少しも明らかでない。

結論 原審第一、第二の事実について有罪と認定したのは、事実誤認も甚しいものであるから、原審は破棄されるべきである。

原審の証拠採用は差戻以前に作成された証拠を中心に採用して差戻後直接審理した証拠としては唯中森の証言によつても山口の犯行を断定する根拠は一つもなく、賍物運搬の場所が、大里保の供述と全く違うに拘らず、現場検証等をしないで、その家屋の関係者、居住者等が判明することによつて真犯人の発見等事案の真相を明確にすることが出来るのに、敢えて之をしなかつたのは審理不尽も甚しいと云わねばならない。

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